丸の内無料バス搭乗記

丸の内の無料バス、あれが気になって乗ってみました。
あれとは日の丸リムジングループが運営する「丸の内シャトル」という、軽油で動くマイクロタービンを使った、ハイブリッドEVバスを使っています(ニュージーランド製だそうです)。


運転席はこんな感じです。変速ギアが付いていたかは思い出せません。

ほぼ運転席から見た景色はこんな感じです。見えているのは逓信総合博物館(ていぱーく)かな?

中には様々なパンフレットが置いてあります。バスツアーのではなくて、金融関係が多いです。液晶ディスプレイがその横にあって、様々な情報を流しています。

座席シートはこんなモダンな感じです。外国製というのも大きいかな、いい感じです。

バス後部はこんな感じです。前面は撮り忘れたので、リンクからご覧ください。

遺伝子淘汰の主導権を握るべきなのは誰?

【ちょっと「と」モードが入ります】
読売新聞(2004年5月4日)の「憲法改正の視点 2004年試案から(上)~豊かさの中身」について

はじめは家族の大切さについてしみじみ感じ入っていました。

家族は生みの親より育ての親といいますが、その大切さは「前回の補足」(id:flying-dinghy:20040429)に述べた解釈を発展させていくと、人(親)と人(子)とは最初が肝心なのではなく、その後の関係こそが大事なのである、ということが言えるでしょう。


しかし、以下の記述について思いを巡らせてみて、思わず腰が抜けてしまいました。
『「人々の誕生や人生はすべて試験管の中で人為的にコントロールされ、家族や一夫一婦制は存在しなくなる」。英国の批評家オルダス・ハックスリーは一九三二年、小説「すばらしい新世界」の中で、そんな未来像を提起した。(中略)日本国憲法の制定当時には考えられなかった「ヒトの情報操作」を現実的に可能なものとしてしまった。』


なぜ腰が抜けたかと申しますと、「全ての電子が同じに見えるのは、元々1個の電子が過去と未来とを行ったり来たりしているからだ」というファインマン博士の師の自説を思い出したのです。


すなわち、図1に挙げるように、元は一個の遺伝子が分化し、過去と未来とを行ったり来たり、無性生殖や有性生殖を繰り返しながら淘汰を行い、最終的にはひとつの遺伝子になって、別の文明に移る、そんなモデルが描けてしまいます。

一つ一つの関係は個人個人の関係に委ねられて何の問題もない、しかし、全人類の遺伝子淘汰レースの鍵を握るのは、誰ならば良いのか、爽やかな休日の中で、呆然としたのです。

前回の補足

前回の投稿(id:flying-dinghy:20040428)では、「新会社論(変わる企業統治 下)」を取り上げてコメントしましたが、「上」について、思い当たることがあるので、改めてコメントします。


『一月下旬、花王の次期トップを決める会長・社長選任審査会で後藤は質問責めに遭っていた。「なぜ尾崎さんなのですか」。…四月十二日の取締役会に提案、「尾崎新社長」はようやく内定した。』


ここで私にとって違和感があります。3ヶ月間もトップシークレットで人事を決めたことではありません。トップ交代後も「なぜ尾崎さんなのですか」と問うようなニュアンスが感じられないのは何故でしょうか。


まず、従来の中期計画型経営における社長選別モデルを図1に示します。社長適任性(中期計画の有効性としてもよい)の絶対値をE(t)とすると社長決定時の社長適任性E(t0)が最も高いものが社長に選ばれることになるでしょう。

しかし、時間tが経過すると、その適任性は変わることがなく、修正パッチを当てるように修正項を掛け合わせた形になると思われます。これでも、償却期間の長い設備投資を行う時代/業態ではそれで良かった。


ところが、ネットワーキング、ITによる企業活動のように、償却期間の短くダイナミックな組織化が行われている中ではむしろ、図2のように計画を短期に、ダイナミックに変動させる方が自然ではないでしょうか。


従って、むしろ社長は誰でもいい、しかし、その後のステークスホルダーとのリレーションシップ、フィードバックによって関係が落ち着くところに落ち着く、というようなスタイルが望ましいように思えるのです。

はじまりはテキトーから

見切り発車ですが、今日から思い付きをテキトーにぶつけていきたいと思います。


日本経済新聞の「新社会論(上・下)」という連載の記事(2004年4月27,28日)において


『(厚生年金基金)連合会は三月、国内初の企業統治ファンドを創設。株主からみた「良い会社」だけに投資する姿勢を前面に出した。運用成績を高めるため、あらゆる手段を使う』


とあります。


従来、企業が株主から「見られている」「なぜを問われている」という意識が希薄で、今後このような意識がさらに求められる事は時代の要請として受け止めなければならないことは確かでしょう。


しかし、その考え方を進めるだけでは早晩破綻してしまうのではないでしょうか。


企業が株主に利益を還元するのをイメージで説明すると、社員を熱源と見立てた図1のようなモデルになると考えられます。しかし、上記の連載のように株主による統治が進むと、図2に挙げるように熱源や伝達経路が取り除かれていく中で、叱咤激励にあたるスパイクだけが大きいものになるというイメージになるのではないでしょうか。


そのような流れが進むと、結局は企業が行き進まなくなるのではないだろうか、というか、もうなってるというのが私の意見です。