遺伝子淘汰の主導権を握るべきなのは誰?

【ちょっと「と」モードが入ります】
読売新聞(2004年5月4日)の「憲法改正の視点 2004年試案から(上)~豊かさの中身」について

はじめは家族の大切さについてしみじみ感じ入っていました。

家族は生みの親より育ての親といいますが、その大切さは「前回の補足」(id:flying-dinghy:20040429)に述べた解釈を発展させていくと、人(親)と人(子)とは最初が肝心なのではなく、その後の関係こそが大事なのである、ということが言えるでしょう。


しかし、以下の記述について思いを巡らせてみて、思わず腰が抜けてしまいました。
『「人々の誕生や人生はすべて試験管の中で人為的にコントロールされ、家族や一夫一婦制は存在しなくなる」。英国の批評家オルダス・ハックスリーは一九三二年、小説「すばらしい新世界」の中で、そんな未来像を提起した。(中略)日本国憲法の制定当時には考えられなかった「ヒトの情報操作」を現実的に可能なものとしてしまった。』


なぜ腰が抜けたかと申しますと、「全ての電子が同じに見えるのは、元々1個の電子が過去と未来とを行ったり来たりしているからだ」というファインマン博士の師の自説を思い出したのです。


すなわち、図1に挙げるように、元は一個の遺伝子が分化し、過去と未来とを行ったり来たり、無性生殖や有性生殖を繰り返しながら淘汰を行い、最終的にはひとつの遺伝子になって、別の文明に移る、そんなモデルが描けてしまいます。

一つ一つの関係は個人個人の関係に委ねられて何の問題もない、しかし、全人類の遺伝子淘汰レースの鍵を握るのは、誰ならば良いのか、爽やかな休日の中で、呆然としたのです。